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不思議な文字

かなり前のことになりますが、家に届いた小包に何とも不可解なことがありました。
もちろん宛先は普通の日本語で記されているのですが、隅の方に鉛筆のようなもので 何やら判読できない文字のようなものが走り書きされています。
それが・・・どう見ても、アラビア文字のようにしか見えないんですよね
限りなくキレイに デザイン性も加味して書き直してみると、こんな感じ。

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いったい誰が、何故? しかもこんなところに―――しばし、色々と考え込んでしまいました。
配達人がアラブ系のアルバイトだった? いや~、流石にそれはないかな・・・とか
外国では襲撃する相手の目印に、仲間にしか解らない記号で目印を付けたりするって聞いたことがありますが・・・まさかね、そんなヤバい仕事してないし σ(^^;)
これが一体何だったのかは 最後に種明かしする事にして・・・

文字というものは言葉の次に重要な伝達手段で、世界のどんな地域でも 文明の形成と発達に不可欠とされてきました。
エジプトやマヤなどの古代文明には 文字によってようやく解き明かされた謎や史実も多く存在します。
今だに解読されていない イースター文明のロンゴロンゴ、逆に同じくらい古い象形文字なのに 現在でも使われているトンパ文字などもあります。
面白いのは、考古学的な興味や価値を別にしても どの文字も非常に美しくて魅力的なことです
言語もその民族が聞いて心地よい音を基準に 発達してきた筈なんですが、アラビアや日本の書道のように「見て美しい」文字は 心地よさを通り越して芸術の域にまで高められてきました。
国にもよりますが、音と意味・そしてビジュアル要素を併せ持つ文字は、単なる伝達の記号から それ自体が特別な力を持つものだと考えられるようになったんですね。
神聖なる文字・・・イスラムなど偶像崇拝を固く禁じた宗教では、文字そのものが神もしくは仏とみなされました。
身の回りで一番有名なものというと・・・お寺などでよく見かける“梵字”でしょうか。

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元はインドのブラーフミー文字というものですが、それぞれに音と意味があり 普賢菩薩や大日如来などの御本尊を表すとされています。
本来は軽々に扱ってはいけない神聖文字なんですが、最近では普通にTシャツなんかにもプリントされていたりしますね (^^;)
単に見た目がカッコイイからという理由でしょうけれど、やはりそれなりに文字自体が持つパワーを 皆ちゃんと感じているのかもしれません。

我々が現在使っている漢字は 御存知のように中国から来たもので、ひらがな・カタカナも そこからの派生だとされています。
でも実は日本にも、神代文字と言うものが存在したと唱える学者が少なくありません。
学会では単なる捏造だと決め付けられ、真剣に研究の対象になっているとは言いがたいのですが・・・。
阿波文字・阿比留草文字・カタカムナ・出雲・豊国文字と、古文書に記されているとされる神代文字は かなりの数を数えます。
中には確かに怪しいものもありますが、その全てが贋物だと断定してもいいものかどうか

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上は“太占(ふとまに)”という占盤に記された、ヲシデと呼ばれる文字。 秀真(ホツマ)ともいいます。
下のは九州の国東半島にある、巨石に刻まれた神代文字と言われているものです。
まぁ、専門家じゃありませんし 真偽の程は判りかねますが・・・漢字が入ってくるまで わが国には文字は無かったのだ、と言い切る方が無茶だという気も しなくはないですね
それなりに力も感じる、面白そうな文字ですし・・・エジプトのヒエログリフみたいに、ちょっと使えたら楽しいかな

では最後に、家に届いた 謎の文字の真相究明をば。
気付くまでにかなりかかりましたが、左に90度回転させてみると・・・

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メチャ汚い字で しかも横向きに「渡部」って書いてあっただけ、なのでした (^^;)
人騒がせな配達人さんだ・・・
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文化・歴史

読書の(?)秋

ようやく少し 秋らしい気候になってきましたね (^-^)
日中 気温が多少上がることはあっても、湿気が少ないんで何ともサワヤカ
うちの周りは緑も多い山裾なので、夏の間は 都会では聴けなくなったミンミンゼミやヒグラシも含めて 蝉の声が凄いんですが・・・
今ではもう夜になるかならないうちから、虫さんの大合唱が秋の情緒を醸し出してくれています。
マツムシやカネタタキの声を聴きながら眠るのが、大阪の市内で暮らしていた頃は夢だったりもしました。
朝から鳥のさえずりも沢山聴けますし、その辺は実に良い処なんですが・・・
デカいムカデとかスズメバチとか、あんまり歓迎したくない類の虫も やたらと多く出没するのは、やはり仕方のないとこでしょうねー
フクロウは鳴くしクワガタも居るし、台所の隅で鈴虫が鳴いていたり 部屋の中を何故か丸虫やカマキリが歩いていたり・・・
真夜中に 前庭の所でノラ犬が何かを食べている―――と思ってよく見たら、キツネだったなんてこともありました (^^;)
野生の王国、ですね~、どんだけイナカやねん・・・そのうちクマも出るかな

読書の秋になったから、なんて解り易い思いつきで本を読む人も まぁ居ないでしょうけど、確かに日が暮れてからゆっくりできる時間が長いし 気候も落ち着いて 色々と頭にも入り易いのは確かなのかも知れません。
このブログを読んで下さってる方なら 大体の察しはつくでしょうが、僕が読む本といえば 音や楽器関係・神道や陰陽道、民間信仰に関するもの・民俗学や考古学などが殆どです。
あとは・・・色々すっ飛ばして、マンガが多いかも
先日、ひょんなことから こんな本を借りました。

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舞台は室町時代、諏訪大社に伝わる奇祭に神の使いとして選ばれた 世阿弥の知を引く美少年の話なんですが・・・
人身供犠の歴史的寓話や 公家の姫との非恋物語も描かれていて、結構楽しめました
この辺はやはりご多聞に漏れず、なんですが・・・実は、いきなり惹かれてしまったのは この題名なんです。
『さなぎ』と聞くと 普通は蚕や蝶が羽化する前の あの蛹しか想像しないと思いますが、神道系の古代雅楽や神代の音楽などを調べていると 違うサナギという言葉がよく出てくるんですね。
「さなぎ鈴」 といいますが、銅鐸と同じように 古代では他にない響きを生み出す神器、金属製の鈴のことを指します。
銅鐸もそうですが 大体円筒形、中に石材か金属製の「舌」を供えていて、振ることによってガランガランと鳴らすものですので・・・まぁ鈴というよりは 現代のベルに近いかな。
さなぎ鈴の場合は 材質が鉄で出来ていますので、「鉄鐸」 と呼ばれたりもします。
その神秘的な音によって 神を呼んだり、そこに神を降臨させる 直接の依り代ともなったりしていたと言われています。
実際、勇壮な御柱祭で有名な諏訪大社には、超古代からこの「さなぎ鈴」が 神器として伝わっているんです。

さなぎ鈴

本物は鈴一個の長さが大体20cmぐらい。
何故か6個ひと組みになっていて、それを2mほどの棒の先に付け 「さなぎ鉾」として神官が託宣の時に揺すって鳴らすものです。
鉄なのでかなり重く、まとめて鳴らすとガッシャ・ガッシャという感じで あまりキレイな音とは思えないんですけど
本の表紙で 踊っている神官が持っている杖、これがそのさなぎ鉾なんです。

高鉾(諏訪 小野神社)

ちょっとオドロで怖い感じもしますけど、周りに結ばれているのは 『ケズリカケ』というものの一種。
天に願いを伝える為の 鳥の羽根をイメージしているとも言われますが、東北から北海道にかけての民間呪具や神像・祭りの祭器などに 飾りとしてよく使われているものですね。
諏訪でも祭りのたびに 願いと共に新しいケズリカケを足してゆくので、どんどんこんな風になっちゃったというわけ

神器といっても 楽器の一種と言えなくもありませんし、またまた悪いクセが出て ちょっとこのさなぎ鈴を作ってみたい―――という気になっちゃいました (^^;)
もちろん実物はデカ過ぎますし、いくら音を再現してみたいと思っても 材料や技術もありませんけど・・・
ミニなら出来るかも~、と思って まずはスプレーなんかに使われている 厚手のスチール缶を板状に切り出してみました。
塗装を剥がし、内部構造なども調べながら何とか丸めて 酸化皮膜を作る塗料を塗ってみると・・・

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お~ 何となくイイ感じ
材料が薄くて小さいので 音もシャラシャラと軽いですが、かなり近い雰囲気の響きが出せました。
あとは40cmほどの棒を削り 出来上がった鈴を付けて、結んだ麻紐の端を解いてゆけば完成

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我ながら なかなかの出来栄え・・・これをカワイイと思うかどうかは、かなり意見の分かれる処だとは思いますが
立てて飾るために、下の台まで作ってあげちゃいました。
こんなのに興味持って、ミニチュア作ったヤツなんか まず居ないだろうなぁ、と思ったら・・・やはり他にも 何人かは居るみたいです、どっか変なのが (^^;)
う~む、何故こうなる・・・どこが読書の秋なんだか
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文化・歴史

盂蘭盆

やたらと続く猛暑の中、今年のお盆も終わりましたね
毎年8月の13~16日あたりは 日本中で民族大移動が起こり、各地の交通機関は大変なコトになりますけど・・・
地方によっては8月の1日からだったり、何処でも同じだと思っている習慣にも まるっきり違うものがあったりして 民俗学的にも興味深いものがあります。

そもそもお盆というもの自体、よくよく考えてみると 宗教的には明確に分類できない存在なんですよね
一般的には 仏教の盂蘭盆(うらぼん)が主体になっているとされていますが・・・

盂蘭盆は サンスクリット語の“ウランヴァーナ”が語源とされ、それには 『逆さ吊りの苦しみ』 という物騒な意味があるそうです
釈迦の弟子であった目蓮(もくれん)という人が、修行の途中で 亡くなった自分の母親が餓鬼道に落ちてしまったことを知ります。
餓鬼道は 欲深な人間が落ちると言われる、永遠に餓えや渇きに苦しむ場所。
彼は不思議な力で 母親に水や食べ物を与えようとしますが、すぐに炎に包まれてしまい 届けることができません。
そこで釈迦に懇願して、ようやく助けてもらった・・・というのが、盂蘭盆経に書かれている話です。

しかしこれはどうも、インドから中国に仏教が伝えられる時に 中国人にすんなりと受け入れて貰えるようにと作られた話のようですね。
中国で主流だった儒教の教えでは 家や親を大切にすることが当たり前。
ところが仏教では、家財産も親も妻も・・・全て捨て、煩悩を断ち切って 出家することこそ重要と説かれます。
この矛盾した教義の溝を埋めなくちゃならなかった訳ですが、わざわざお経まで作っちゃうとは―――
母親思いのイイ話なのかな~と思いきや、けっこう無茶な後付けですよね (^^;)

この盂蘭盆が中国から渡来した時、日本では御他聞に漏れず 各地にあった土着信仰と思いっきり結びついちゃったんですね。
だってお盆って、根本的なところが 何処かおかしいとは思いませんか?
そもそも あの盂蘭盆の話が、現在の 『先祖の霊をお迎えしてもてなす』 という考え方と習慣に どう関わってくるのか。
確かに 亡くなった親も祖霊ですから、その供養という点では 一致していますが・・・☆ 
でも仏教の考え方に基づくなら、亡くなった人は 成仏した彼岸で安寧に暮らしているはず。
その極楽浄土から (まぁ、御先祖によっては 未来永劫に抜け出せない筈の地獄から、って場合もあるのかもしれませんけど) 死者が 夏にだけ帰ってくるなんて、ね
家に帰ってくる筈の祖霊を待たず、田舎へ墓参りに出かけちゃうってのも 何処か変な気がします。

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これは古くからの民間信仰や神道など、ありとあらゆるものが習合しちゃった結果なんですね。
写真の盆棚は「精霊棚」とも「施餓鬼棚」とも呼ばれますが、名前の時点で既に 祖先の霊と餓鬼供養がごっちゃになってます (取りようによっては失礼な話 ^^;)
四方に笹を立てて結界を張るのは 明らかに古神道の修法ですし、家の中に神や祖霊を招き入れて 寝食を共にするという考え方は 日本古来の民間信仰です。
東北の神事 「アエノコト」 などに見られる、田の神を招いて一緒に食事をしたり相撲を取ったりする あの習慣と同じですね
その時に神をもてなす為の 「神饌(神様のお食事)」 の設えが、精霊棚にお供えするものと非常によく似ています。
因みに 「ほおずき」 を注連縄に飾るのは、祖霊が迷わない為の 提灯代わりだそうです。
言われてみればホオズキ、漢字では 「鬼灯」 と書きますよねー。
でも この鬼というのは 日本の節分に登場する鬼ではなく、中国語で霊のこと・・・こうなってくると、ますますワケわかりません (^^;)

これも 多少の矛盾や習慣の違いなどはものともせず、様々な 「有難いもの」・「祀るべきもの」 を都合よく混ぜて信仰してしまえる、日本ならではのことなのかも知れません。
(仏壇の前に注連縄、という光景は、多少の矛盾どころか けっこうスゴいな~と思ってしまいますが☆)
地方によって正反対の言い伝えがあったり 説明に苦しむ点が多かったりもしますけど、毎年こうして 盆棚はもちろん精霊船などを可能な限り綺麗に飾り立てるのは なかなかイイものですよね。
帰ってきてくれる祖霊を 何とかもてなしたい!という気持ちが 切ないほど表れていて、素直に美しいなぁと思ってしまいます。

亡くなった人たちは、いったい何処へ行くのか。
今まで傍で見守っていてくれた存在は、この世から消えて それっきりになってしまうのか。
世界中にある色々な宗教は、たぶんその一点の疑問から発している―――そういう意味では、すべて同じなのかも知れません。
天国・地獄・極楽・六道輪廻・海の彼方(ニライカナイや西方浄土)・山へ登って郷を見守る、空の上や地下にある根の国、千の風・・・
誰も本当のところは判りませんし、知り得ない世界だからこそ 少しでも寂しくない方向へ考えてみよう・・・と、古来 人々は悲しみにくれながらも頑張ってきたのでしょう。
人間って、何かカワイイですよね

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文化・歴史

魂振 (たまふり)

古来 日本人が言葉も含めた『音』というものに特別な力を感じ、神霊との交信や邪悪なものを遠ざける為に 様々な試みと工夫を凝らしてきたこと、そしてそれは 現代の我々の生活の中にも連綿と受け継がれていることを書いてきました。
特に○○教・☓☓宗の信者ではないという人でも、縁起の悪いことを連想させるような言葉にだけは 妙に敏感だったりする。
尤もこれは、分類するとしたら 宗教というよりは民俗学に近いものなのかもしれませんが・・・
仏教や密教・古神道が その地位を築くよりずっと以前―――もしかしたら 弥生や縄文よりも古代から、この国に 音に対する特別な信仰があったことは確かなようです

そして同時に、これも古くから 音を使って相手の魂を活性化させたり 鎮めたりしようとする考え方がありました。
神霊や福を招く・場を清める・魔を祓うなどという 他の音霊に見られる性格とは、明らかにちょっと違う目的が感じられます。
これが 様々な音霊の中でも特別に 「魂振=タマフリ」 と呼ばれる、もうひとつの古代信仰の核となるものなんです。

音霊の一例として、魏志倭人伝に記された日本の古い習慣 “柏手” についてお話しましたが・・・あれが 「魂振」 の原型だと考えられています。
この場合は 手を打ち合わせる音を使って、対象となる魂に活性を取り戻して 元気になって頂こうとする考え方ですね。
人間同士の習慣としては 早くに廃れてしまったようですが、神様に対してだけは 今でもちゃんと神社に残っている、という訳です。
実は その前にガランガランと鳴らす大きな鈴も、①神の降臨する場所を示し ②場を清め ③神を呼ばう というご大層なことを 3つも同時にやっちゃえるという、何ともお手軽な音霊だったりするんですが (^^;)
神社の中で聞くことのできる様々な音の中でも、この鈴や雅楽の音などは ごく一般的な音霊の使われ方だと言えるでしょう。
でも柏手だけは、魂振として 「元気な良い神に変わる」 ように働きかける訳ですから、やはり特別なものであったと考えられます。

年に一度、神様を本格的に活性化させようという大切な祀りの場面には、もっと直接的な手段も 並行して用いられました。
それが今でもお祭りでは必ず担ぎ出される 神様の乗り物・・・お神輿ですね。
ワッショイ・ワッショイという威勢のいい掛け声と共に激しく揺すられるのは、一年間休んでいた神様に起きて頂かないと困るからです。
祭りによっては お神輿同士を激しくぶつけ合ったり、中には川に放り込むなんていう 乱暴なパターンもありますけど
文字通り 「魂を振って」 神様に元気を取り戻して頂き、願いを聞いて貰いたいという 切なる気持ちに変わりはありません。

「音による活性化」 という考え方は、なにも日本の専売特許ではなく 古くから世界各地にあったようです。
士気を鼓舞する、という表現があるように ギリシャでもオスマン帝国でも 軍隊では必ず太鼓やラッパの音が使われてきました。
かの賢人ピタゴラスも 「音楽は魂を 異次元へと昂揚させ、そして調律する」 という言葉を残しています。(数学定理で有名なヒトなので、ちょっと意外にも思えますけど
もっと身近な処では、あのスーッとする快感が堪らない ヘアトニックやジン・トニックなどの 「トニック」 という言葉がそうですね
TONIC と書きますが、この単語に含まれているTONEというのは、「ハイ・トーン」 や 「トーンダウン」 に使われるように “音” のことです。
元気をもたらすもの、という意味を持つトニックが 音からきているなんて―――まさに魂振、音による活性化ですよね
人類は太古の昔から、音の力をちゃんと知っていたんでしょうか・・・。 

他にも、古代の日本には 「魂呼ばひ」 或は 「もがり」 と呼ばれる習慣がありました。
古事記などの記述にも出てきますが、これは亡くなった親族などを 一定期間埋葬せず、生活圏から離れた 喪屋(もがり小屋)という場所に安置しておくものです。
そのまま埋葬して放置しておくと魔物に変ずるので それを防ぐためだったともされますが、その折には 死者の耳元で ずっと本人の名前を呼び続けたと言われています。
これも声によって魂を浄化すると同時に、活性化させて生き返ることをも期待した 一種の魂振だと考えられているんですね。

真夏の夜、最後にちょっと涼しくなるような話になってしまいましたが・・・
いにしえより続く、活力への祈りと 魂振に関わる儀式。
そのために特殊な音や声・楽旋律などの 「音霊」 が様々に試行洗練され、使われてきました。
科学的に解明されないまでも、やはりそこには 音の力を認めざるを得ない何かが存在するんだろうと 素直に感じてしまいます。

神霊や魂を活性化させるなんて 大仰に捉えなくとも、例えば お寺の鐘の音や川のせせらぎに心癒される体験だけでも 充分なんです。
好きな音楽を聴いて涙したり、元気になったり・・・これだって立派に “魂振られて” いることになる訳ですからね

僕の演奏も 尺八の世界で言う処の 「一音成仏」 の境地には まだまだ到達できそうにありませんが・・・
仮にも音を出すことを生業にしている以上、発するものには責任を持たなくちゃいけないなぁ―――と 改めて思う次第であります
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文化・歴史

言霊 (ことだま)

鈴・弦・笛・鼓―――様々な楽器の音色や、手を打ち合わせる音。
何らかの手段によって発せられた音が、神霊や人間の魂に対して 鎮め・清め・活性化などの影響を及ぼす、というのが 「音霊」 信仰の考え方です。

古代の日本では 神事に限らず、記録には残らないような日常での細かいことにまで 音霊の思想が浸透していたと考えられています。
例えば・・・平安貴族の間では 親指と人差し指の爪をチッチッと弾いて音を出し、気に入らない人間が寄って来ないようにするという インケンな習慣がありました
これも音霊を利用したまじないの一種ですが、こんな古いものまで 「爪はじきにされる」 という表現として 今だに残っていたりするんですね。
犬を追っ払う時に 「シッシッ」 と言ったり 騒がしい子供を叱るのに 「シーッ」 という音を使うのも 実は音霊。
神事の露払いで 魔を祓い(短い、シッシッ) 鎮める(長い、シーッ)為の “警畢(けいひつ)” というものが元になったりしています。
これは楽器などの道具を使わず 人間の口によって発する音ですから、より身近で頻繁に使われてゆくことになります。  
音霊として 「人間の声」 が使われる場合、切り離して考えられないのが 普段話している 「言葉」 ですよね
この場合は特別に 「言霊(ことだま)」 と呼ばれますが・・・発せられた時点で 既に明確な意味を含んでいる言葉は、更に生活の中で重要視されてゆきます。

日本各地に残る、参加者全員でひたすら笑い声を挙げる神事や 「おめでとうございます」 という言葉を連呼する古い祭り
・・・これなども 音の一種である声、または言葉によって 魔を祓い、福を呼ぶ効果を期待したものですね。
お経や声明で浮かばれない霊を供養する、真言で魔を祓い封じるなどの儀式も、宗教としては全く別のものですが 広い意味では言霊の一種だと言えなくはないかも知れません。

単なる音と違って 言霊信仰で重要視されるのは、 “発した言葉は 現実になる力を持つ” ということ。
これが実は、昔から日本人の大好きな 「縁起を担ぐ」 ことと深く関わって 言霊が広く定着した一番の要因なんです。
中身は至極簡単明瞭―――つまり 良い言葉は重ねて連発する、悪い言葉は口にしないという たったそれだけ (^^;)

「競馬で全財産をスッた」 という時の 「摩る」 の表現を嫌って、「当たる」 に言い換えるのが有名ですね
すり鉢のことを当たり鉢と呼んだり、ヒゲを当たる、スルメじゃなくてアタリメ、など。
「去る」 も縁起が良くないので 「得る」 に変えて、猿のことを 「エテ公」 と言ったりもします☆
他にも 結婚式での別れる・切れる・壊れる、弔事での追う・引く・重ねるなどの表現が 忌み言葉として御法度なのは常識ですし、只の飲み会でさえも 「終わる」 と言わず 「お開き」 と言い換えたりしています。

かの有名な陰陽師 阿倍清明は、「物や人の名は 付けられた瞬間からそれを支配する呪(しゅ)となる」 と明言していました。
これも言霊思想の現れですが、昔の人は 更に普通の単語や名前・連想にまでその範囲を広げて、身の回りにある言霊の全てを 出来るだけ良い方向に変えてゆこうとしていたんです。
なので、我々の身の回りにある事物や 古くから伝わる習慣には、縁起を意識した言霊が溢れることになりました。
 「切れる」 ことを避けて刃物を贈答に使わない、節分で 「魔滅(マメ)」 を投げる、お祝い事には 「喜ぶ(ヨロ昆布)」 など・・・おせち料理の中身なんか、挙げていったらキリがないくらい
単なる言葉のこじつけや シャレ感覚で捉えている場合も多いのですが―――普段当たり前のように使っているこれら全てが、超古代から連綿と続く 「言霊信仰」 の一部だというのはオドロキですよね☆
たぶん 身の回りにはまだまだあると思いますので、時間があったら探してみてください。

クラスメイトを傷つけるような いじめの言葉を平気で使う子供達、無責任で場当たり的な発言ばかりを繰り返す 今の政治家たちにも、いま一度言霊の大切さを学んで頂きたいものです  
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文化・歴史