言霊 (ことだま)
- 2012⁄07⁄28(土)
- 02:55
鈴・弦・笛・鼓―――様々な楽器の音色や、手を打ち合わせる音。
何らかの手段によって発せられた音が、神霊や人間の魂に対して 鎮め・清め・活性化などの影響を及ぼす、というのが 「音霊」 信仰の考え方です。
古代の日本では 神事に限らず、記録には残らないような日常での細かいことにまで 音霊の思想が浸透していたと考えられています。
例えば・・・平安貴族の間では 親指と人差し指の爪をチッチッと弾いて音を出し、気に入らない人間が寄って来ないようにするという インケンな習慣がありました

これも音霊を利用したまじないの一種ですが、こんな古いものまで 「爪はじきにされる」 という表現として 今だに残っていたりするんですね。
犬を追っ払う時に 「シッシッ」 と言ったり 騒がしい子供を叱るのに 「シーッ
」 という音を使うのも 実は音霊。
神事の露払いで 魔を祓い(短い、シッシッ) 鎮める(長い、シーッ)為の “警畢(けいひつ)” というものが元になったりしています。
これは楽器などの道具を使わず 人間の口によって発する音ですから、より身近で頻繁に使われてゆくことになります。
音霊として 「人間の声」 が使われる場合、切り離して考えられないのが 普段話している 「言葉」 ですよね
この場合は特別に 「言霊(ことだま)」 と呼ばれますが・・・発せられた時点で 既に明確な意味を含んでいる言葉は、更に生活の中で重要視されてゆきます。
日本各地に残る、参加者全員でひたすら笑い声を挙げる神事や 「おめでとうございます」 という言葉を連呼する古い祭り
・・・これなども 音の一種である声、または言葉によって 魔を祓い、福を呼ぶ効果を期待したものですね。
お経や声明で浮かばれない霊を供養する、真言で魔を祓い封じるなどの儀式も、宗教としては全く別のものですが 広い意味では言霊の一種だと言えなくはないかも知れません。
単なる音と違って 言霊信仰で重要視されるのは、 “発した言葉は 現実になる力を持つ” ということ。
これが実は、昔から日本人の大好きな 「縁起を担ぐ」 ことと深く関わって 言霊が広く定着した一番の要因なんです。
中身は至極簡単明瞭―――つまり 良い言葉は重ねて連発する、悪い言葉は口にしないという たったそれだけ (^^;)
「競馬で全財産をスッた」 という時の 「摩る」 の表現を嫌って、「当たる」 に言い換えるのが有名ですね
すり鉢のことを当たり鉢と呼んだり、ヒゲを当たる、スルメじゃなくてアタリメ、など。
「去る」 も縁起が良くないので 「得る」 に変えて、猿のことを 「エテ公」 と言ったりもします☆
他にも 結婚式での別れる・切れる・壊れる、弔事での追う・引く・重ねるなどの表現が 忌み言葉として御法度なのは常識ですし、只の飲み会でさえも 「終わる」 と言わず 「お開き」 と言い換えたりしています。
かの有名な陰陽師 阿倍清明は、「物や人の名は 付けられた瞬間からそれを支配する呪(しゅ)となる」 と明言していました。
これも言霊思想の現れですが、昔の人は 更に普通の単語や名前・連想にまでその範囲を広げて、身の回りにある言霊の全てを 出来るだけ良い方向に変えてゆこうとしていたんです。
なので、我々の身の回りにある事物や 古くから伝わる習慣には、縁起を意識した言霊が溢れることになりました。
「切れる」 ことを避けて刃物を贈答に使わない、節分で 「魔滅(マメ)」 を投げる、お祝い事には 「喜ぶ(ヨロ昆布)」 など・・・おせち料理の中身なんか、挙げていったらキリがないくらい
単なる言葉のこじつけや シャレ感覚で捉えている場合も多いのですが―――普段当たり前のように使っているこれら全てが、超古代から連綿と続く 「言霊信仰」 の一部だというのはオドロキですよね☆
たぶん 身の回りにはまだまだあると思いますので、時間があったら探してみてください。
クラスメイトを傷つけるような いじめの言葉を平気で使う子供達、無責任で場当たり的な発言ばかりを繰り返す 今の政治家たちにも、いま一度言霊の大切さを学んで頂きたいものです
何らかの手段によって発せられた音が、神霊や人間の魂に対して 鎮め・清め・活性化などの影響を及ぼす、というのが 「音霊」 信仰の考え方です。
古代の日本では 神事に限らず、記録には残らないような日常での細かいことにまで 音霊の思想が浸透していたと考えられています。
例えば・・・平安貴族の間では 親指と人差し指の爪をチッチッと弾いて音を出し、気に入らない人間が寄って来ないようにするという インケンな習慣がありました


これも音霊を利用したまじないの一種ですが、こんな古いものまで 「爪はじきにされる」 という表現として 今だに残っていたりするんですね。
犬を追っ払う時に 「シッシッ」 と言ったり 騒がしい子供を叱るのに 「シーッ

神事の露払いで 魔を祓い(短い、シッシッ) 鎮める(長い、シーッ)為の “警畢(けいひつ)” というものが元になったりしています。
これは楽器などの道具を使わず 人間の口によって発する音ですから、より身近で頻繁に使われてゆくことになります。
音霊として 「人間の声」 が使われる場合、切り離して考えられないのが 普段話している 「言葉」 ですよね

この場合は特別に 「言霊(ことだま)」 と呼ばれますが・・・発せられた時点で 既に明確な意味を含んでいる言葉は、更に生活の中で重要視されてゆきます。
日本各地に残る、参加者全員でひたすら笑い声を挙げる神事や 「おめでとうございます」 という言葉を連呼する古い祭り

・・・これなども 音の一種である声、または言葉によって 魔を祓い、福を呼ぶ効果を期待したものですね。
お経や声明で浮かばれない霊を供養する、真言で魔を祓い封じるなどの儀式も、宗教としては全く別のものですが 広い意味では言霊の一種だと言えなくはないかも知れません。
単なる音と違って 言霊信仰で重要視されるのは、 “発した言葉は 現実になる力を持つ” ということ。
これが実は、昔から日本人の大好きな 「縁起を担ぐ」 ことと深く関わって 言霊が広く定着した一番の要因なんです。
中身は至極簡単明瞭―――つまり 良い言葉は重ねて連発する、悪い言葉は口にしないという たったそれだけ (^^;)
「競馬で全財産をスッた」 という時の 「摩る」 の表現を嫌って、「当たる」 に言い換えるのが有名ですね

すり鉢のことを当たり鉢と呼んだり、ヒゲを当たる、スルメじゃなくてアタリメ、など。
「去る」 も縁起が良くないので 「得る」 に変えて、猿のことを 「エテ公」 と言ったりもします☆
他にも 結婚式での別れる・切れる・壊れる、弔事での追う・引く・重ねるなどの表現が 忌み言葉として御法度なのは常識ですし、只の飲み会でさえも 「終わる」 と言わず 「お開き」 と言い換えたりしています。
かの有名な陰陽師 阿倍清明は、「物や人の名は 付けられた瞬間からそれを支配する呪(しゅ)となる」 と明言していました。
これも言霊思想の現れですが、昔の人は 更に普通の単語や名前・連想にまでその範囲を広げて、身の回りにある言霊の全てを 出来るだけ良い方向に変えてゆこうとしていたんです。
なので、我々の身の回りにある事物や 古くから伝わる習慣には、縁起を意識した言霊が溢れることになりました。
「切れる」 ことを避けて刃物を贈答に使わない、節分で 「魔滅(マメ)」 を投げる、お祝い事には 「喜ぶ(ヨロ昆布)」 など・・・おせち料理の中身なんか、挙げていったらキリがないくらい

単なる言葉のこじつけや シャレ感覚で捉えている場合も多いのですが―――普段当たり前のように使っているこれら全てが、超古代から連綿と続く 「言霊信仰」 の一部だというのはオドロキですよね☆
たぶん 身の回りにはまだまだあると思いますので、時間があったら探してみてください。
クラスメイトを傷つけるような いじめの言葉を平気で使う子供達、無責任で場当たり的な発言ばかりを繰り返す 今の政治家たちにも、いま一度言霊の大切さを学んで頂きたいものです


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