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デジタルの功罪(2)

その場の空間を共有しなければ楽しめなかった伝統芸能から、レコードや電波という新しいメディア媒体への移行。
これは確かに 革命とも呼べる劇的な変化ではあった訳ですが・・・例えどれほどの利便性や開放性、音の印象の差があったにしても、この時点ではまだ音楽が 「アナログ」 という範疇にあったことに変わりありません。

ご存知の通り、音というのは 空気の微弱な波動を様々な周波数で我々の聴覚が捉えたものです。
その元となる振動は 動物や人間の声帯であったり楽器の鳴動であったり、雷や水のせせらぎといった自然現象に至るまで 数限りなく存在しています。
共通しているのは、その圧力波が周りの空気を震わせ それが鼓膜を共振させることによって 「音」 として認識されるという点です。

この振動を別の物理的な変化に置き換えて そのまま記録・再生する仕組み、それがアナログ方式と呼ばれるものです。
蝋管蓄音機であれ電波であれ、音の振動を 「波の変化」 として表面の凹凸や電気信号に記録し、他の場所で再びスピーカーによって元の空気振動に戻してやる・・・という根本原理には 何の変わりもありません。

それに対してデジタルとは、この記録の課程を全て数値に変換したもののことをいいます。
例えば ある音の波をオシログラフという機械で目に見える形にした時、キレイに富士山のような曲線を描いたとします。
アナログ方式ではこの線をそのままなぞって記録しますが、デジタルでは 数値化する為に 「棒グラフ」 に書き換えるのと同じ作業をします。
一番低い所の数値が2、一番高い場所は13・・・といった具合。(実際にはコンピューターと同じで、全て1と0の数値として置き換えられますが)
横軸の時間に沿って2から4→9→13と大きくなってゆき、また次第に小さくなるわけですね。
ただ このままだと曲線にはならずガクガクした階段状になってしまいますので、それを可能な限り細かく割って 段差を小さくしていくんです。
ちょうどパソコンの文字のようなもの・・・見た目には普通に滑らかな曲線を描く平仮名でも、虫眼鏡でよ~く見ると全てガクガクの階段状になっているのが解ります。
この場合、液晶画面の文字がデジタル、筆で手書きした文字がアナログということになります。
その意味で言えば、身近な蛍光灯なども少しデジタルの範疇に入ります。
アナログの炎が一定の明るさでずっと燃え続けるのに対し、蛍光灯は交流電源ですから超スロー映像で見ると一瞬の点滅を繰り返しているんですね。
余りにも速度が早いので、人間の目では感知することが出来ないだけの話です。

CDなどのデジタル音源もそれと同じ。
美しく滑らかに響くバイオリンも 我々の耳にはそう聴こえるだけで、実は数値化されブツブツ切れた音が 限りなく緻密に並べてあるだけなんです。
ちょうどアリの行列が、遠くから見ると一本の線にしか認識できないのと同じように。

そして更に、その音の粒のひとつひとつは 既に元のバイオリンの音から抽出されたものですらない、という事実があります。
周波数から計算で弾き出され、数値だけで再構成された 自然界には存在しない電子音の羅列・・・。

これって、何だか少し怖くありませんか?


《最終話に続く・・・と思う  ^^; 》
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音楽・楽器

Comment

今流行りの

似顔絵ジグソーみたいだね。
モノトーンの濃淡ピースの組み合わせ次第で、誰の顔でもできちゃうやつ。

CDでも、歌い手さんの笑顔がちゃんと見えたりはするから
とても丁寧に、忠実に再現されてるんだと思う。

でも、それを会場で大音量で流しながら
本人がその通りの口パクをしても
魂が震えるコトは無いんだろうなぁ。

直に魂から魂に伝わる音なら、たった一音でも痛いほど響くものね。
  • 2011⁄02⁄20(日)
  • 09:35

そのへんが

結局イチバン難しいとこなのかも知れないなぁ★
直接波動を伝えられる生音が最高なのは確かなんだけど・・・。
それじゃ近くの人だけが楽しめればそれでいいの?とか 生音が一旦電気信号に変換されちゃうマイクはOKなの?って話にもなってくるしね。
ちゃんと伝えるって、実は演奏するより難しいのかも知れない。

  • 2011⁄02⁄20(日)
  • 18:52

マリア・カラス

難しい問題でございまするねー。水を差すようなコメントですみません。マリア・カラスの復帰後を描いた映画がございました。復帰のお仕事が、歌劇カルメンを映画化する、という内容でしたが、全盛期の声が出ない。マリアが自分の最高の録音レコードをかけて出ない声を嘆き、泣きむせびながら、早い話が、一人、口パクで歌うシーンがありました。実際、マリア・カラスを演じる女優さんはオペラ歌手じゃないし口パクなんですが、心の底から震えたし、泣けました(映画館で周囲はばからず、鼻水垂らして)。なんだろうなー、背景が見えたり、共感したり共鳴したりする為には、受け手側の持つ背景との合わせ鏡的な部分が必要だからなー。一番の問題は、自分が動かずにいてもパソコンのキーボード叩くだけで簡単に音が手に入ってしまうことかな…コンサートを観に行く場合、開催日を知ったその日から当日までの時間、当日の朝から会場に行くまでの、すでに歴史的背景が積み上げられてたりする。それは、レコードに針を落とす作業によく似てる…すでに自分自身が鳴ってたんじゃないかな、と。マリア・カラスのそのシーンは、そこに来るまでにもう、カモノハシの心の琴線鳴りまくりな訳ですね。あとは、それを弾いてあげるだけなんだけど…。ところが人間の感覚の記憶ってすごいんだと思います、その時に受けた音圧の記憶は、たぶん、圧倒的なんですね、聴き分けることが出来るんですよ。ルパン三世のカリオストロの城の「炎の宝物」というテーマ曲、映画の中のは大感激するくせに、CDを聴くとスカスカなんです。変でしょ、歌手は別人かと思うくらい違うんです。
  • 2011⁄02⁄20(日)
  • 21:30

コメントというより・・・

カモノハシブログ本文になってるじゃないの (^^;)

勿論音楽は単なる音の高低だけじゃない筈で、同じ曲を同じ場所で受け取ったとしても その人の人生経験や周りのビジュアル的な要素、そこに至る過程なんかでも全く変わってくるよね。
映画にしろ演劇にしろ、最初から懐疑的な評論家もいれば 「どっぷり浸って泣く為に来る」人だって居るわけで・・・。
要するにその場での個々人のベクトル差というものは、いくら腕に縒りを掛けて作った一流の料理でも 必ず評価の差を生んでしまうものだろーからね。。。
作り手の方は何も変えることなく、魂をこめて真摯なものを作ってゆくしかないのかも。



  • 2011⁄02⁄21(月)
  • 00:48

すんまへん

書いているとコーフンしてしまうのですね、申し訳ないです。

言いたかったのは、個人のベクトル差の問題ではなく、口パクであったとしても人は感じる事がある、という例を言いたかったのですよ。だったら、デジタルを選ぶ理由や、マイクを使う理由に、受け手の心の琴線をはじけるだけのパワーや、熱烈に伝えたいモノがあったら、ちゃんと人の五感は反応するのではないか、と。表現者の情熱は、デジタルの問題も乗り越えてゆけるんじゃないかと、そう思う訳です。

もちろん、会場に来ていただいて、出来れば生がいいんですけどね。生でしか有り得ないフラメンコは幸せだー。
  • 2011⁄02⁄21(月)
  • 11:06

確かに

逆の、デジタル化やPAの使用があるから情熱が伝わらないんだ、ナドという言い訳は通用しませんですね (^^;)
基本的にフレキシブルな人間に、乗り越える力は充分備わってはいるんだろうけど・・・やっぱり積極的に乗り越えようとするベクトルが無いと難しいんじゃないか、ということです。
それをちゃんと反応させるだけの力は、もちろん演者にも求められるんだろうけどね。
  • 2011⁄02⁄21(月)
  • 15:32

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